フィリピン訪問(8月16~24日)

塩村あやかは8月16日から24日までフィリピンを訪問し、同国の上院議員との懇談や戦没者慰霊碑の除幕式に参加しました。

以下は現地から行ったX(Twitter)への投稿のまとめです。

 

8月16日(土)

【フィリピンに到着】

マニラ空港に到着しました。(動画はこちら

 

編注・この後、自動車で120km余りを移動し、同日夕刻にマニラから東方のバターン州に入りました。

 

8月17日(日)

【バターン州のバガック市に到着】

ロン・マイケル・アレクシス・デルロザリオ市長の出迎えを受け、バターン死の行進0km地点や日比フレンドシップタワーへ慰霊に伺います。

先の大戦では、日本軍が捕虜を100km以上に渡り移動をさせ、多くを死に至らしめた歴史があります。

この場所がそのスタート地点。忘れてはいけない歴史があります。 市長と共に献花を行いました。(動画はこちら

バターン死の行進の0km地点のすぐそばにあるのが、フレンドシップタワー。

凄惨な戦争の禍根を乗り越えて、未来を創るフレンドシップタワー。そのタワーには、日本の佼成会から寄贈された平和の鐘があります。

市長や地元キリスト教など宗教者の皆さまと共に参拝いたしました。

サマット山へ。ここは太平洋戦争下で日本軍の侵攻により、フィリピンとアメリカ軍が戦った場所。ガイドさんの案内はとても親切で説明も丁寧。日本がフィリピンでしてきた歴史を忘れることなく、向き合い二度とおなじことを繰り返さないと思い返さなくてはいけません

 

残留日本人2世と対面】

バターンのあとは、日本人の父と戦争により生き別れとなったワタナベさんのお宅に寄り、励ましてきました。

とても美味しいフィリピン料理を息子さん達に頼んで用意してくれており、私が温かい気持ちとなりました。

大丈夫。親族探しとご自身のルーツを回復する来日はきっと叶う。あと少し。応援しています。

 

【マニラに戻って夕食】

数百メートル先で日本人2人が銃撃により死亡したニュースに接しました。

お亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。

 

8月18日(月)

【フィリピンの上院議員と対面】

フィリピンの国会に到着しました。

ラフィー・トルフォ上院議員の議員会議に到着し、記帳を行いました。フィリピンの国会議員の秘書やスタッフは20-30人。公費で賄われているとのことで、日本の3人という公設秘書の数との違いに驚きました。

トルフォ議員と懇談、そしてランチ。

トルフォ議員は国民人気が高く、次期大統領としての期待も高まっている議員。日系3世です。

直近の選挙では弟も上院議員に当選。

私が取組むフィリピン残留日本人2世問題を伝えたところ、問題意識を同じくしており、フィリピンの国会で取り上げることに言及して頂けました。

お会いしてみて、リーダーシップに長けていると感じました。貧困支援に積極的に取組んできたこと、それが広く国民に浸透して支持されていることも実感。

懇談にはトルフォ議員の叔母である、パシータさんも同席。

パシータさんは日系2世です。

ランチ懇談では、フィリピン残留日本人2世問題だけではなく、アジア地域の安全保障環境についても意見交換を行いました。

過去は凄惨な歴史を持つフィリピンと日本。だからこそ、私たちは二度と自国を戦場にしてはならないと考えます。

海洋上の問題についても、日本はフィリピンの防衛に役立つ支援をしています(OSAによる沿岸監視レーダー供与等)。

今後も両国がアジアの平和に貢献できるよう、共に尽力してまいります。

 

【パラワン州・エルニドへ】

マニラからエルニドに到着しました。(動画はこちら

 

8月19日(火)

【残留日本人2世ハラダ・ロサリナさんとの対面】

マラピンガン島。貧しい地域ですが、自然は美しい。(動画はこちら

海辺のこの家に住むのがハラダ・ロサリナさん。

この写真一枚でどれだけ残留日本人2世が過ごした戦後80年が厳しいものであったか分かると思います。

船でしか来れないマラピンガン島。電気もなく暮らす2世をこのまま無国籍のまま捨て置いても良いのでしょうか。

ハラダ・ロサリナさん。

じっくりとお話を聞かせていただきました。

ロサリナさんへのお土産で国会のお土産品であるルーペを持ってきたのですが、ロサリナさんは教育を受けられる環境ではなかったため、文字が読めないそうです。

厳しい環境で育ったフィリピン残留日本人2世。

この小舟に乗りハラダ・ロサリナさんに会いに行きました。

帰りはロサリナさんを乗せてエルニドへ。そこから車で州都プエルト・プリンセサへ。ロサリナさんの子どもが住んでおり、無国籍かつ身分証明書もないロサリナさんの身分を証明する手続きをしなくてはなりません。

小さな島から出ることは殆どなく、この機会に5時間の車の旅を一緒にしました。 後ろのおじいちゃんは95歳。収容所に連行され死亡したロサリナさんの日本人の父であるカメジロさんと家族ぐるみの付き合いをしていた方です。

みんなの応援があります。ロサリナさん、日本で自分は誰なのか探しに行こうね。

 

8月20日(水)

【パラワン州知事と懇談】

今日はパラワン州知事と懇談を30分。

素晴らしい新しいリゾートを持つパラワンですが、日本人観光客が殆ど来ていないそうです。確かに私が宿泊しているホテルも西洋人と中国人が殆どでした。

知事は日本が大好きでよく休暇で日本に来ているとのこと。日本のODAについても話題になりました。コールドチェーンを採用して、特産品である新鮮な海鮮を発展させたいようです。中国の支援の申出がある前に、日本もゆかりの地であるパラワンの支援は一考に値すると考えます。

 

パラワンでの慰霊と視察】

第二次世界大戦における、パラワン島の抗日ゲリラ1000人を讃えるメモリアルです。という説明でしたが、視察した印象では、世界大戦に関連のものを収集した博物館という感じでしょうか。

私たち日本人の視点ではなく、当然のことながらパラワンに住むフィリピン人の視点となっています。

私がみているのが、視察2日目に訪れたバターンからパラワンに連行されたアメリカ人捕虜のサバイバーです。

日本軍は連行した捕虜がいる地下壕にガソリンをまき、焼き殺しました。壕から飛び出てきた捕虜を射殺。そんな中、11人が生き延びました。

バターン死の行進で日本軍に連行された米兵の収容所です。(動画はこちら

150人余りの米兵捕虜を日本軍は壕に閉じ込め、ガソリンを撒き焼死させました。壕から這い出てきた米兵には機銃掃射を浴びせ、生き延びた米兵は11人のみ。 その収容所の入り口はそのままあり、壕も見ることができます。

日本軍のこうした行いは、現地に住む日本人や日系人の迫害に繋がっていきました。だから日系人は自分が日系人であることを隠して生きてきた人が多いのです。

 

【日系2世・藤本ベロニカさんと対面】

プエルト・プリンセサは戦前に多くの日本人が移住した地。

藤本ベロニカさんの父は日本人。母は日系2世。つまりベロニカさんは2世の中でも1世に近い存在でしたが、助産師として活躍していたことから迫害を受けることなく戦中戦後を過ごしました。しかし周辺環境もあり国籍回復は近年になってからです。

今日はベロニカさんの娘さんたちに招待され、お家で聞き取りや懇親を行い、お茶とsweetsを頂きました。ベロニカさんの子どもの多くは医師となりマニラをはじめとして活躍し、娘さんは世界を舞台とするビジネスを営んでいます。温かい家族のぬくもりを感じながらの時間でした。

わたしにベロニカさんは「ピュアジャパニーズか?」と聞き、日本に深い愛着があることが垣間見えました。

日系人は戦中戦後の厳しい反日感情のなか、耐え抜いてパラワンで生きてきました。

このように3世-5世が地元でレストランを営んだりして日本に想いを馳せながら暮らしてきました。

皆さんとお会いし、今や日系人は外国と日本のとても大切な架け橋だと痛感せずにはいられませんでした。

日本はもっと日系人を大切にして、国際社会でのプレゼンスを確立させるべく応援したほうが国益に資するとも感じます。

 

8月21日(木)

【パラワンからマニラ経由でパナイ島・イロイロへ】

パラワン(プエルト・プリンセッサ空港)からイロイロ地域の慰霊碑除幕式に向かうため、一旦マニラにむかいます。

たくさんの歴史を聞き、日系人の苦しみを学びました。本当にありがとうございました。

5時間も遅れてイロイロに到着しました。

 

8月22日(金)

【戦没者慰霊碑の除幕式に出席】

パナイ島イロイロ市にて開催された、日本人戦没者慰霊碑のリニューアル除幕式に日本の国会議員として来賓挨拶をさせて頂きました。

この記念すべき催しに私を招き、挨拶の機会を賜ったことに感謝を申し上げます。

こちらの車椅子のお二人は102歳と104歳。抗日ゲリラでした。

 

戦後80年の節目を迎えたこの夏、私は深い学びを得ました。

このイロイロ市は、戦前にこの地に移住をした日本人が集団自決を強いられた地でもあります。その時に複数名の子どもが生き延び、この慰霊碑除幕式に参加しています。日本人、アメリカ人、フィリピン人、日系人とその立場からフィリピン戦をみたときに、全く見える世界が違います。しかし、それを乗り越えて平和と、先の大戦の慰霊と鎮魂のために私たちは集い、市長や地元で大人気の政治家も参加をしました。

残留日本人の宮里千鶴子さん。父母が日本人で移民としてイロイロ地域に。大戦が始まり、父が日本軍に現地徴兵され死亡。母も戦争避難中に妊娠中に死亡。フィリピン戦の日本人残留戦争孤児です。

今も極貧で学歴もなく、日々の食事にも困る生活を送っています。NPOの調査員の話によれば、食事もままならないため米を持っていったところおかずもなく、ジュースをかけて食べていたとのことで深刻との報告を受けています。

そんな宮里さんから、わたしは猫と同じように喉をゴロゴロしてもらいました。ふだん猫を可愛がっているとのことでした。

カタコトの英語でやりとり。イロイロでは日本人の集団自決があったほど、戦争中には抗日ゲリラ(生存者2名が車椅子で参加)に追い詰められました。それぞれの立場で平和を願う戦後80年の今日の日本人慰霊碑リストア除幕式に参加できている、この奇跡を噛み締めたいと思います。

 

編注・この日の夕刻に空路イロイロからマニラへと戻りました。

 

8月23日(土)

【マニラ市内を視察】

マニラ市街地を歩く。 戦争の爪痕。

第二次世界大戦フィリピン戦。マニラ市街地戦も有名で、大伯父もコレヒドールからマニラに移動し、市街地戦になることが分かると設営隊は軍属であることから、直前に東海岸のインファンタ駐屯地へ移動を命ぜられる。その後、インファンタの戦闘で下士官である大伯父は戦死するが、このマニラ市街地も恐怖があらゆる角度から飛んでくる地獄だった。

戦争は人間を人間でなくなくさせる。だから私は戦争を風化も美化もさせてはならないと考えています

 

【マニラ日比協会と交流】

総会にお招き頂き、ご挨拶と宣誓の立ち会いを行い、新役員の誕生を祝福いたしました。(動画はこちら

皆さんにとって日本は希望だと感じました。期待を失望に変えない努力を政府に後押しして参ります。

 

編注・某秘密結社のロッジも訪問しました。

 

【日本に帰国】

ただいまー!!

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